いきなりが降ってきた。
玄関に置いてあった傘が誰かに持って行かれてしまったので、ずぶ濡れになった。
そのまま駅へは迎えないので、たまたま目の前にあったカフェに飛び込んだ。
「いらっしゃいませー」
棒読みに近い歓迎文句。
濡れた頭をハンカチで拭きながら店内へ入る。
客はまばらで、皆テーブル席へ座っており、カウンター席がそこへ座れと言わんばかりにあいていた。
「ここ、いいですか?」
若そうだけれど、堂々としていて、大人っぽく見える、女性のウェイトレス。
茶色いエプロンをかけていて、長めの髪を後ろでひとつ縛りにしている。髪型というものそのものに興味がないので、これがどういう名前なのかは知らないが。
「いいですよー」
アルバイトなのだろうか。事務的な返事が返ってきた。年配のザ・マスターな感じのおじいさんだったら、もっと柔らかな返事がくるだろう。
メニューを開く。内容はごく普通の喫茶という感じ。値段は少し高め。まあ、こだわりの逸品というやつだろう。
「ブレンドひとつ。」
「はぁい」
抱えてきたカバンの中のパソコンの中には、レポートが山積みになっているはずだが、雨でやる気が失せている自分は、カウンターで珈琲を入れる準備をしている彼女をぼけーっと眺めていた。
「ん? 何か?」
「? ああいや。特に何もすることがないもんですから。」
嘘つけ。
「そうですかー。いきなりの雨で大変だったですよねー。」
あっ、結構話しやすいかもしれない。この雰囲気。
「えぇ、カバンは濡れるし、傘は誰かに持ってかれてしまうし、定期落としちゃうし、今日はついてないですね・・・。」
自分で言ってて情けない。
さすがに彼女のこの不運ぶりに衝撃を覚えたようで、
「あぁ・・・そんなにいろいろあったんですね・・・。」
哀れみの目が悲しい。
「あーでも!、嫌なことがあった後には、いいこともあるって、よく言いますよね!」
頑張って慰めようとしてくれる。更に悲しい。
「そうだといいんですけどね・・・」
愛想笑いというか、にやけ顔というか。なんとも言えない笑顔をしていたのは周りの客も気づいていたのだろう。
「お待たせしました。ブレンドです。」
出てきた珈琲は、とても美味しかった。香りが強いながらも、クセがなく、苦すぎて酸っぱいこともない、ザ・普通。の珈琲だった。うん。おいしい。
「お客さん、高校生ですよね。」
「え、まあ。こう見えてって感じで。三年です。」
僕は見た目年齢不詳タイプなので、よく若い会社員と間違われるのだ。梅雨のこの季節、ワイシャツに学生服のズボンだと、なおさらそういう感じが出てしまうようだ。ああ、イケメンになりたい。
「私も高校三年生なんですよ。こう見えて。」
ニコッと笑う店員さん。ドキッとして、どう返答したのものかと悩む。
「雨は嫌いですか?」
そんな無意味な悩みに頭をひねっていると、次の質問が飛んできた。
「そりゃもう、めちゃくちゃ嫌いですよ・・・。」
なんか泣けてきそう。
「ですよねー。私も雨はどうしても好きになれなくて。」
「なにかあったんですか?」
「飼っていた猫がいたんですよ。」
「ほう」
おっと。彼女の表情からして、もしかすると、とても重たい話なのでは?
「雨の日に窓から出て行って、しばらく帰ってこなかったんですよ。」
「・・・」
「外に散歩に行くことは結構あって、でも、雨の日に出てくのは珍しいんですよ。」
「雨が嫌いなんですかね?」
「そうみたい。それで・・・雨はしばらく降り続いて、家族みんなでもう帰ってこないものだと思っていました。みんな、夜遅くまで、近くの河原や、コンビニや、公園、ゴミ捨て場を探して回りました。友達や親戚にも探すのを手伝ってもらいました。」
「それでも、うちのかわいい猫は、みつかりませんでした。」
「・・・」
なぜだろう。涙がこぼれそう。
「ああ、泣かないでください。」
「いや、涙もろいんですよ・・・」
続きをどうぞと手を差し出す。
「それで、一週間くらい経った日のことですかね。夕方頃、玄関のほうから猫の鳴き声がするんですよ。」
「え?」
「あーまあ、落ち着いて。 で、驚いて、玄関を開けてみたんです。」
「帰ってきたんですか!?」
「そう。 でも、様子がおかしかったんです。」
「ケガ・・・とか・・・?」
「いや、違いました。 隣に違う柄の猫がもう一匹増えていたんですよ。」
「え?」
「オス猫のようでした。多分ボーイフレンドだと思います。」
「あぁ・・・」
「なんで、わざわざ雨の日にボーイフレンドに会うために出掛けたんですかね?別に晴れの日でもよくないですか?」
「みんな心配しますよね・・・。でも、でも、帰ってきてくれて良かったじゃないですかー!」
「・・・
そんな猫の会話をして時間を潰した。
ちなみに、彼女はその猫行方不明騒動で張り紙をしてくれたカフェ(ここ)の店主に誘われてアルバイトをしているそうだ。毎日やる気がしないそうだが、やってみるとコーヒーを入れるのはどこか繊細な作業で意外と楽しいそうだ。
彼女と話した時間は、最初に思ったよりも楽しくて、あっという間に気分は晴れ渡っていた。
ゴーン ゴーン
入り口の壁に掛けてあった古時計が六時を告げる。
「もう二時間経ちましたね・・・」
「ほんとだー。あ、なんか私の話だらけですみませんでしたね・・・」
「いえいえ、楽しかったので。」
「少し、お手洗い、お借りしますね。」
「どうぞー。」
窓の外はすでに雨上がりの空となっていた。
向こう側には赤く染まった陽が見える。
「それじゃ。また、よらせてもらいますね。」
レジに立つ僕は、今日一日あった悪いことなどなかったかのような笑顔が自然にあふれ出ていた。
「ありがとうございました。」
彼女もまた、そんな僕を励ましてくれるような笑顔を向けてくれた。だから、ドアを押す力はそんなにいらなかった。
***
雨が通り過ぎた駅前の街を歩いて行く。
一日の不運なんて、ちっぽけだ。そう思わせてくれる笑顔があの場所にあった。
何日も何日も耐えなければならない辛さや寂しさだってある。
そう、彼女は教えてくれた。
***
それから数日経った、朝から土砂降りのある日のこと。毎日往復の切符を買って、お財布が苦しい通学を強いられていた僕の下駄箱にかわいらしい付箋が貼ってある。特に何も書いてはおらず、ただ貼ってあるだけ。
「?」
下駄箱を開けてみると。
「!?」
そこには落とした定期がしっかりと入っていた。
誰が拾ってくれたのだろう。
なぜ、名前や理由を書いておいてくれなかったのだろう。
というか、そもそもなぜ、僕のものだと分かったのだろう。定期に書かれている個人名からでは下駄箱は特定できないはずだ。
この付箋はどういう意味なんだろう。柄からして多分女子生徒なんだろうけど。
これは、多分、三毛猫の柄?
それから、教室に行って、そのことを訊いても、拾い主が見つかることはなかった。
でも、雨の日は僕にとって、少なくとも嫌いではなくなった。